eskerrikasko’s blog

のんびり生きましょう🩰

テモテへの手紙とテトスへの手紙から教会指導者が何を学ぶことができるか

テモテへの手紙とテトスへの手紙から教会指導者が何を学ぶことができるか


 これらの手紙には、私達がクリスチャンとしての役割である、マタイによる福音書28章19-20節

それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。やペテロの第一の手紙2章9節

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。のように弟子を作るため、

誰しもがイエスの様に師のように教える立場であるのです。祭司の国、祭司と同じように、模範となるような生き方こそがイエスの生き方であり、イエス様も言っているように

マタイによる福音書5章20節

わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。


 私達は常に勉学に励んで、神様に従い、敬い、模範となる事が必要なのです。


 また、エズラのように、エズラ記7章10節

エズラは心をこめて主の律法を調べ、これを行い、かつイスラエルのうちに定めとおきてとを教えた。


 そして、このテモテへの手紙で書かれているようになるように


テモテヘの第二の手紙2章15節

あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。

 

 これらの手紙には、指導者への指導だけではなく、指導者も私達、クリスチャンの道のりであり、やがて目指す先だけではなく、指導者ではない神様に従う者達にも宛ててくれています。どんな方に対しても、若いものから老いたもの、やもめや人生の状況に対してでもです。


 そして、教会のいろいろな問題にどう対応をしたらいいかも書かれています。


 そして模範として、良き指導者として、手紙の最初と最後には、愛のこもった思いと祈り、そして励ましと祝福がきされています。

 書いてある内容だけではなく、書き方にも指導者としての例を与えてくださる素晴らしい書達です。

 


「というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。 だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力にささえられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。 神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基き、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み、 そして今や、わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである。 わたしは、この福音のために立てられて、その宣教者、使徒、教師になった。 そのためにまた、わたしはこのような苦しみを受けているが、それを恥としない。なぜなら、わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである。 あなたは、キリスト・イエスに対する信仰と愛とをもって、わたしから聞いた健全な言葉を模範にしなさい。 そして、あなたにゆだねられている尊いものを、わたしたちの内に宿っている聖霊によって守りなさい。」

‭‭テモテへの第二の手紙‬ ‭1‬:‭7‬-‭14‬ 口語訳‬


 私達には、体に与えられる苦しみはないかも知れません。与えられる方もいるかもしれません。しかし、それぞれ試練がない方はいません。神様は愛するものを鍛えますからです。

 

神様の豊かな恵と祝福がありますように!

イエス様に従う事

エスに従う事を書くとなると、神様に従う事にもなり、聖書全体になってしまいます。

 私は文書にまとめる事、整える事が不得意で、いつも聖書の箇所ばかりを書いて、自分の

言葉がすくなります。何個かを新約聖書に絞り選びました。

 私の父が好きな話でよく使われるのが、

マタイ19章にある話です。

 

「すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。 この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。 イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。」

‭‭マタイによる福音書‬ ‭19‬:‭16‬-‭21‬ 口語訳‬


この青年はイエスに従う事ができませんでした。全てを捨ててイエス様に従う気持ちが足りませんでした。よくの方がかったのです。


 また父がよく従うにお話する箇所はこのもう一の話です。


「道を進んで行くと、ある人がイエスに言った、「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」。 イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。 またほかの人に、「わたしに従ってきなさい」と言われた。するとその人が言った、「まず、父を葬りに行かせてください」。 彼に言われた、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」。 またほかの人が言った、「主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを言いに行かせてください」。 イエスは言われた、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。」

‭‭ルカによる福音書‬ ‭9‬:‭57‬-‭62‬ 口語訳‬

 

 それと共によくいう事は家族を愛する事が悪い事ではない。神様をイエスを第一にしているかどうかが問題だと教えます。


 長年、この話を聞いているので従うと聞くとどうしても、この話たちが頭に浮かんできます。


また、次の箇所もよく使います。

「それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」

‭‭マタイによる福音書‬ ‭16‬:‭24‬ 口語訳‬


 私はこれらの箇所が分かりやすく、まとまって

説明していると思います。


細かく言えば、たくさんの教えがあります。


 この箇所もよく聞く箇所かと思います。

エスは、また人々に語ってこう言われた、「わたし

は世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。」

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭8‬:‭12‬ 口語訳‬

 

エス様に従うとどんな得があるかという話

かと思います。得というとあまり良い響きではないですが、悪い事ではないという事と言った

方が良いのでしょうか?

エス様の光、世の光に照らされ歩む事ができ

る。


またマタイ ‭10‬:‭5‬-‭42‬ では、イエスに従うものを使わす時のイエス様の指示があり、とても

参考になる点でもあると思います。


聖書の箇所を載せていますが、略すがすごく悩みましたが、あると読みやすいと思い、

載せておきました。


エスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。 行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。 病人をいやし、死人をよみがえらせ、重い皮膚病にかかった人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。 財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。 旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。 どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。 その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。 もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。 もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。 あなたがたによく言っておく。さばきの日には、ソドム、ゴモラの地の方が、その町よりは耐えやすいであろう。 わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。 人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。 またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである。 彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。 語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。 兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、また子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。 またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 一つの町で迫害されたなら、他の町へ逃げなさい。よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町々を回り終らないうちに、人の子は来るであろう。 弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。 弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし家の主人がベルゼブルと言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。 だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。 わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。 また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。 二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。 またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。 それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。 だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。 しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。 そして家の者が、その人の敵となるであろう。 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。 あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。 預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。 わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。」

‭‭マタイによる福音書‬ ‭10‬:‭5‬-‭42‬ 口語訳‬


さっきの聖書の箇所の続きです。イエスさまに

従う事は彼を受け入れ恥じる事なく、十字架を

背負う事であります。

「それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。 人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。 また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。 邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。」

‭‭マルコによる福音書‬ ‭8‬:‭34‬-‭38‬ 口語訳‬


「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。 もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。」

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭12‬:‭25‬-‭26‬ 口語訳‬


 また、イエスに従うという事は、イエスのように従順である事でもあります。

「こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。 また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。 また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。 また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。 あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。 あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。 だから、彼らの仲間になってはいけない。 あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい―― 光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである―― 主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。 実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。 彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。 しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、 「眠っている者よ、起きなさい。 死人のなかから、立ち上がりなさい。 そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。 そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、 今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。 だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。 酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、 詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。 そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、 キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。」

‭‭エペソ人への手紙‬ ‭5‬:‭1‬-‭21‬ 口語訳‬


エス様に従う事は、神の子となり、彼に選ばれ、神様の民となる事でもあります。


「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。 あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。 愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。 異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。 あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、 あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。 善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。 自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。 すべての人をうやまい、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい。 僕たる者よ。心からのおそれをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気むずかしい主人にも、そうしなさい。 もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。 悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。 あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。 あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。」

‭‭ペテロの第一の手紙‬ ‭2‬:‭9‬-‭25‬ 口語訳‬


エスさまに従うという事は良い行いをする事でもあります。

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。 わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」

‭‭エペソ人への手紙‬ ‭2‬:‭8‬-‭10‬ 口語訳‬


エス様に従うという事は、イエス様のように神様のみことばで口をいっぱいにし、彼の名を語るにふさわしい者となる事でもあります。


「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。 そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。」

‭‭コロサイ人への手紙‬ ‭3‬:‭16‬-‭17‬ 口語訳‬


「イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。 また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。」

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭8‬:‭31‬-‭32‬ 口語訳‬


そして、どうすればイエス様に従う者であり、

彼のうちであるかを判断される為には、神の彼の戒めである互いに愛しなさい。を行っているかによって判断をする事ができます。

「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。」

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭13‬:‭34‬-‭35‬ 口語訳‬


エスさまに従うという事は彼の内であるか、

彼に結ばれているのかでも見る事ができます。


「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。 あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。 あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。 もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。 わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。 これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。」

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭15‬:‭1‬-‭19‬ 口語訳‬


長くなりましたが、彼の御言葉に従って、

行っているかが、イエス様に従っていると

言えるでしょう。たくさんの教えがある中の

わずかでさらに、神様の御言葉ばかり

並べてしまい、すみません。言葉じたいが

語っています。

 

神様豊かな恵と祝福がありますように。

 

幕屋とキリスト

幕屋とキリスト

 

幕屋

f:id:ebaeskerrikasko:20230512101714j:image


幕屋 

英語では、 Tabernacle、ヘブライ語では מִשְׁכַּן、mishkanは聖書に登場する移動式の神殿のようなものでした。会見の天幕とも呼ばれていたりします。ただし、過去の聖書翻訳において、幕屋(ミシュカーン(ヘブライ語版、ドイツ語版))と天幕(オーヘル(ヘブライ語版、英語版))とを明確に区別しているものはあまりなく、それぞれの翻訳間に表記のばらつきが存在します。

 スペイン語の辞書は主に英語から訳されているため、オーヘルが使われています。


ヘブライ語のミシュカーンמִשְׁכַּן、mishkanは「住居」という意味であり、神の住まう所であるとされていまして、後に、ソロモン王が神殿を建設するまでの間、その役割を果たしました。


神様の目的


 神様の目的は、わたし達の中に住むことであった。

これらの始まりが、この幕屋なのである。どういう事かというと、出エジプト記25:8で仰られたように、


「また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。」

‭‭出エジプト記‬ ‭25‬:‭8‬ 口語訳‬


 これが神様の御心、目的なのです。


幕屋の呼ばれ方 


 幕屋は聖所ともよばれていて、幕屋はさまざまな呼ばれ方をされている。


新聖所辞典によると、


(1)聖所、ヘブライ語でミクダーシュ(出エジプト記25:8)で使われていて、「取りのける」「神聖にする」という意味の語源、ヘブライ語ではカーダシュをもつ、その名詞形、ヘブライ語でコデシュ(分離していること、神聖であることを表す)は、直接「聖所」を意味する時もあります。(出エジプト記38:24)


「聖所のもろもろの工作に用いたすべての金、すなわち、ささげ物なる金は聖所のシケルで、二十九タラント七百三十シケルであった。」

‭‭出エジプト記‬ ‭38‬:‭24‬ 口語訳‬


ギリシャ語タ・ハギア(ヘブル書8:2等)

「人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである。」

‭‭ヘブル人への手紙‬ ‭8‬:‭2‬ 口語訳‬


ギリシャ語 ハギオス(聖なる)の名詞形、使徒言行録6:13では、

「それから、偽りの証人たちを立てて言わせた、「この人は、この聖所と律法とに逆らう言葉を吐いて、どうしても、やめようとはしません。」‭‭使徒行伝‬ ‭6‬:‭13‬ 口語訳‬

この語が神殿を指しており、「聖なる所」と訳されています。


(2)幕屋、ヘブライ語ではミシュカーン 

「すべてあなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない。」

‭‭出エジプト記‬ ‭25‬:‭9‬ 口語訳‬

 

これの動詞、ヘブライ語でシャカーンは、「とどまる」「天幕を張る」「住む(人が住む、ヘブライ語でヤシャーブではありません。)」などの意味を持つので、神様が地上において、そのようにされる所が幕屋であります。


ギリシャ語へー・スケーネーは、「テント」「仮小屋」「天藤」などの意味を持つこの語は、新約聖書では、ヘプル人への手紙に多く見られる(ヘブル書8:2等)

「人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである。」

‭‭ヘブル人への手紙‬ ‭8‬:‭2‬ 口語訳‬


(3)主の幕屋、ヘブライ語でミシュカン・ヤハウエ (レビ記17:4等)「それを会見の幕屋の入口に携えてきて主の幕屋の前で、供え物として主にささげないならば、その人は血を流した者とみなされる。彼は血を流したゆえ、その民のうちから断たれるであろう。」

‭‭レビ記‬ ‭17‬:‭4‬ 口語訳‬


(4)あかしの幕屋、ヘブライ語でミシュカン・ハーエードゥース(出エジプト記38:21等)

「幕屋、すなわちあかしの幕屋に用いた物の総計は次のとおりである。すなわちモーセの命に従い、祭司アロンの子イタマルがレビびとを用いて量ったものである。」

‭‭出エジプト記‬ ‭38‬:‭21‬ 口語訳‬

 ヘブライ語でエードゥースは,「あかし」「十のことば(十戒)」という意味であり、あかし(十のことば)の石の板の入った箱(契約の箱)がその中に安置されていることから,この呼び名が起こりました。 

ギリシャ語でへー・スケーネー・トゥー

・マルテュリウー(使徒言行録7:44)

「わたしたちの先祖には、荒野にあかしの幕屋があった。それは、見たままの型にしたがって造るようにと、モーセに語ったかたのご命令どおりに造ったものである。」

‭‭使徒行伝‬ ‭7‬:‭44‬ 口語訳‬

 

(5)会見の天幕.

ヘブライ語でオーヘル・モーエードゥ(出エジプト記27:21等)

「アロンとその子たちとは、会見の幕屋の中のあかしの箱の前にある垂幕の外で、夕から朝まで主の前に、そのともし火を整えなければならない。これはイスラエルの人々の守るべき世々変らざる定めでなければならない。」

‭‭出エジプト記‬ ‭27‬:‭21‬ 口語訳‬

 ヘブライ語でオーヘルは,「テント」「天幕」の意味をもつ(創世記13:3)

「彼はネゲブから旅路を進めてベテルに向かい、ベテルとアイの間の、さきに天幕を張った所に行った。」

‭‭創世記‬ ‭13‬:‭3‬ 口語訳‬

 

のこと、

ヘブライ語でモーエードゥの動詞(ロヤーアドゥ)の意味は「定める」「約束する」であることから,主とお会いするための「定められた場所」のことの意味もあるようです。「その所でわたしはあなたがたに会い,その所であなたと語る。その所でわたしはイスラエル人に会う」(出29:42-43)


「これはあなたがたが代々会見の幕屋の入口で、主の前に絶やすことなく、ささぐべき燔祭である。わたしはその所であなたに会い、あなたと語るであろう。 また、その所でわたしはイスラエルの人々に会うであろう。幕屋はわたしの栄光によって聖別されるであろう。」

‭‭出エジプト記‬ ‭29‬:‭42‬-‭43‬ 口語訳‬

 

(6)会見の天幕である幕屋、ヘブライ語でミシュカン・オーヘル・モーエードゥ(出39:32等)

 

「こうして会見の天幕なる幕屋の、もろもろの工事が終った。イスラエルの人々はすべて主がモーセに命じられたようにおこなった。」

‭‭出エジプト記‬ ‭39‬:‭32‬ 口語訳‬

 

これは,(2)+(5)の形である。

 


(7)あかしの天幕 ヘブライ語でオーヘル・ハーエードゥス(民9:15等)


「幕屋を建てた日に、雲は幕屋をおおった。それはすなわち、あかしの幕屋であって、夕には、幕屋の上に、雲は火のように見えて、朝にまで及んだ。」

‭‭民数記‬ ‭9‬:‭15‬ 口語訳‬

 

(8)主の聖所、ヘブライ語でミクダシュ・ヤハウェ(民19:20)

 

「しかし、汚れて身を清めない人は主の聖所を汚す者で、その人は会衆のうちから断たれなければならない。汚れを清める水がその身に注ぎかけられないゆえ、その人は汚れているからである。」

‭‭民数記‬ ‭19‬:‭20‬ 口語訳‬

 


(9) 神の宮、ヘブライ語でベース・ハーエローヒーム(士師記18:31)


 「神の家がシロにあったあいだ、常に彼らはミカが造ったその刻んだ像を飾って置いた。」

‭‭士師記‬ ‭18‬:‭31‬ 口語訳‬


カナン定着後,幕屋はヨシュアによってシロに建てられたが(ヨシ18:1)


「そこでイスラエルの人々の全会衆は、その地を征服したので、シロに集まり、そこに会見の幕屋を立てた。」

‭‭ヨシュア記‬ ‭18‬:‭1‬ 口語訳‬


それ以来,「宮」と呼ばれることもあった。

ヘブライ語でベースは,本来は「家」という意味である。

 

(10)主の家、ヘブライ語でベース・ヤハウェ(出34:26)


「あなたの土地の初穂の最も良いものを、あなたの神、主の家に携えてこなければならない。あなたは子やぎをその母の乳で煮てはならない」。」

‭‭出エジプト記‬ ‭34‬:‭26‬ 口語訳‬


「主の宮」(1サム1:7、


「こうして年は暮れ、年は明けたが、ハンナが主の宮に上るごとに、ペニンナは彼女を悩ましたので、ハンナは泣いて食べることもしなかった。」

‭‭サムエル記上‬ ‭1‬:‭7‬ 口語訳‬


 シロでのこと)とも訳されています。


(11)主の宮、ヘブライ語でへーカル・ヤハウェ(Iサム1:9)


「シロで彼らが飲み食いしたのち、ハンナは立ちあがった。その時、祭司エリは主の神殿の柱のかたわらの座にすわっていた。」

‭‭サムエル記上‬ ‭1‬:‭9‬ 口語訳‬

 

(12)地上の聖所、ヘブライ語でト・ハギオン・コスミコン (ヘブ9:1)

 

「さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがあった。」

‭‭ヘブル人への手紙‬ ‭9‬:‭1‬ 口語訳‬


こういった、たくさんの呼ばれ方をしました。

 

幕屋の作成に関連する指示は次のとおり「出エジプト記」25-30章に書かれています。


契約の箱、および幕屋内で使用する備品(25章)

幕屋、聖所と至聖所とを区切る垂幕(26章)

犠牲を捧げる祭壇、中庭(27章)

祭司の職服(28章)

香を焚く祭壇(30章)

移動の際にはアロンの家系の祭司たちが解体し、レビ族が運搬の任に当たりました。(民数記 4章)。


中身がこうなっています。

f:id:ebaeskerrikasko:20230512101815j:image


だいたいのイメージです。


こういった模型がアムステルダムの博物館に

展示されているみたいです。

f:id:ebaeskerrikasko:20230512101844j:image

1975 Diccionario Ilustrado de la Bibliaの辞書より


幕屋は神様と話す場所、会える場所

罪を許されるための捧げ物をする場所として

つくられました。


 大祭司は年に1度,大いなる購いの日に,自分と自分の家族、そしてイスラエルの民のために至聖所へ入って購いの儀式を行いました。その身に水を浴び、亜麻布の聖なる装束(長服、ももひき、飾り帯、かぶり物)で全身を覆うようにした後,いけにえの動物をほふり、その血をとり、炭火と香を手にして,垂れ幕の内側(至聖所)へ入った。その香を火にくべ,その雲(煙)が「購いのふた」を覆う時、いけにえの動物の血を,指で「購いのふた」の東側に,また7

たび「贖いのふた」の前に振りかけたのでした。(レビ16章).これは,イエス・キリストの十字架の贖いのみわざを予表しています。

 「キリストは,すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば,この造られた物とは違った,さらに偉大な,さらに完全な幕屋を通り、また,やぎと子牛との血によってではなく,ご自分の血によって,ただ1度、まことの聖所に入り、永遠の購いを成し遂げられたのです。」(ヘブ9:11-12).

「キリストは、ただ1度,今の世の終わりに,ご自身をいけにえとして罪を取り除くために,来られたのです」(ヘブ9:26)


幕屋と神殿の違い


幕屋は一つの場所ではなく、ダビデにとっては

神様にはもっと素晴らしい所を与えたいという

気持ちがありました。


神様の答え

「「行ってわたしのしもべダビデに告げよ、『主はこう言われる、わたしの住む家を建ててはならない。」

‭‭歴代誌上‬ ‭17‬:‭4‬ 口語訳‬


神様の理由


「すなわちダビデはソロモンに言った、「わが子よ、わたしはわが神、主の名のために家を建てようと志していた。 ところが主の言葉がわたしに臨んで言われた、『おまえは多くの血を流し、大いなる戦争をした。おまえはわたしの前で多くの血を地に流したから、わが名のために家を建ててはならない。 見よ、男の子がおまえに生れる。彼は平和の人である。わたしは彼に平安を与えて、周囲のもろもろの敵に煩わされないようにしよう。彼の名はソロモンと呼ばれ、彼の世にわたしはイスラエルに平安と静穏とを与える。 彼はわが名のために家を建てるであろう。彼はわが子となり、わたしは彼の父となる。わたしは彼の王位をながくイスラエルの上に堅くするであろう』。」

‭‭歴代誌上‬ ‭22‬:‭7‬-‭10‬ 口語訳‬


神様の家は平和で争いの場所であってはならなかった。祈りの家にしたかったのです。

だから、


「また主に連なり、主に仕え、 主の名を愛し、そのしもべとなり、 すべて安息日を守って、これを汚さず、 わが契約を堅く守る異邦人は―― わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、 わが祈の家のうちで楽しませる、 彼らの燔祭と犠牲とは、 わが祭壇の上に受けいれられる。 わが家はすべての民の 祈の家ととなえられるからである」。」

‭‭イザヤ書‬ ‭56‬:‭6‬-‭7‬ 口語訳‬


幕屋は祈りの家ではない点はあります。

中身でやる事は一緒です。神様の臨在、

ただ雲に満たされる時とは違っていました。

場所もすこしあり、


幕屋

f:id:ebaeskerrikasko:20230512101938j:image


ソロモンの神殿

f:id:ebaeskerrikasko:20230512101956j:image

エスの時代の神殿

f:id:ebaeskerrikasko:20230512102008j:image

 


内容は似ているが、

神様がうちに住む目的が薄れていくように

思われる。

エス様はそれでも、罪への赦しの捧げ物を

守り、神殿を神の家とも呼んでいる

 

「するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。」

‭‭ルカによる福音書‬ ‭2‬:‭49‬ 口語訳‬


「はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。」

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭2‬:‭16‬ 口語訳‬


供え物も守っている


「イエスは彼に言われた、「だれにも話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた供え物をささげて、人々に証明しなさい」。」

‭‭マタイによる福音書‬ ‭8‬:‭4‬ 口語訳‬


神様の臨在の雲については、

列王記上後、書かれているところがみかけません。

 

「祭司たちは雲のために立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。 そこでソロモンは言った、 「主は日を天に置かれた。 しかも主は自ら濃き雲の中に住まおうと言われた。 わたしはあなたのために高き家、 とこしえのみすまいを建てた」。」

‭‭列王記上‬ ‭8‬:‭11‬-‭13‬ 口語訳‬

 

もう少し調べたいと思います。


神様が雲で満たす事の幕屋との違いがあるように思います。

 


幕屋とキリストのつながり


「幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。 それによって聖霊は、前方の幕屋が存在している限り、聖所にはいる道はまだ開かれていないことを、明らかに示している。 この幕屋というのは今の時代に対する比喩である。すなわち、供え物やいけにえはささげられるが、儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない。 それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いごとに関する行事であって、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎない。 しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。 もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、 永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。 それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。」

‭‭ヘブル人への手紙‬ ‭9‬:‭7‬-‭15‬ 口語訳‬


つまり、私達は以前選ばれた人しか入れない

神様の臨在に子羊のように捧げられたイエス

のおかげで入れるようになり、捧げ物になった

エス様を通して、罪の赦しを得られただけではなく、祈りの家や宮であった神殿は、私達に住まわれた聖霊のおかげで(わたし達のうちに生きる事は神様の御心と目的であった。)私達の内が神様の宮になり、その臨在をいつでも、もつようになり、いつでも神様と会話をする事ができたのです。以前は特定の人としか会話を持てなかったことが誰でも神様を信じ、イエス様を受け入れるものがもてるようになったのです。


神様に感謝します。

他人に対しても自分に対しても親切であること。

f:id:ebaeskerrikasko:20220912062617j:image

「落ち穂拾い」でしられているフランスの画家・ミレーは、有名になる前は寒さをしのぐための薪を買うお金もないほどでした。家族を養うために裸婦画を描き日銭を稼いで生活していましたが、そんな折、朗報が届きます。

 パリの万国博覧会に出展した『接木をする農夫』を4000フランで買いたいという人物が現れたのです。ミレーは喜び、同じ画家で親友のテオドール・ルソーを仲介してすぐに大金は支払われました。しかし、なぜかその購入者の名前は分かりませんでした。実はこれは、ミレーを助けるためにルソーが身元を隠して購入していたのです。後に「バルビゾン派」と呼ばれる彼らは、困った時は互いに助け合い、多くの作品を残しました。

 

 

 

「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。 律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。」‭‭ガラテヤ人への手紙‬ ‭5:13-14‬ ‭口語訳‬‬

 

 

「貧しい者はいつまでも国のうちに絶えることがないから、わたしは命じて言う、『あなたは必ず国のうちにいるあなたの兄弟の乏しい者と、貧しい者とに、手を開かなければならない』。」‭‭申命記‬ ‭15:11‬ ‭口語訳‬‬

 

 

「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。」‭‭マタイによる福音書‬ ‭25:35-40‬ ‭口語訳‬‬

 

 

キリストにおけるアイデンティティと私達はみな羊のよう

前回のレポートのテーマが

キリストの内にアイデンティティ(自己の独自性)を見出すことが、自己の価値観や愛されているという意識にどのような影響をもっているか、2~3ページの省察レポートにまとめてください。その結論を支持するための聖句を3つ用いてください。  

 それに加えて、キリストに自己の独自性を据えることが、平安と愛、受容と安心、そして存在価値(重要性)を見出すために、どのような助けとなるかを聖書的根拠と共に記し、それを教会で用いることのできるトラクトとして1~2ページ分の要約レポートに作成してください。

でした。皆様と分かち合えたらと思います。少々長いトラクトですが、読むのが好きな人なら大丈夫でしょう🕊🌾

 

 

キリストにおけるアイデンティティ(自己の独自性)


「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭3:16‬ ‭口語訳‬‬


 御自分の子をささげるほど。子供の命を人の為にささげるという事は難しい事です。愛する子供なら、なおさら。この世では、自分の子に暴力を振るって殺す人もいれば、捨てる人もいる。そういう人ではなく、心から愛する子供の命をささげる事は苦しい事です。ただささげるだけではなく、ちゃんと理由がある。たくさんの人の命を救う為です。そこに愛があります。

そうでないといけない理由は、人の罪の許しは、御子の前は、その人の経済余裕により、さまざまでした。しかし,子羊はより多くの人の罪の赦しに捧げられていました。御子の捧げ物は時を越えて、全ての人の罪を洗い流せるためだったのです。たった一回の1人で十分でした。

ですから、神ご自身が人になり私達のために来てくれたのです。

 私達への愛は、私達を神のかたちに人を造った事からも見る事ができます。 

 「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」

‭‭創世記‬ ‭1:27‬ ‭口語訳‬‬


 嫌いな人を自分に似せる事をしないでしょう。私達を愛したかったのです。私達も自分がどれだけ可能性がいっぱいあるのかをここで見る事ができます。


私達が想像を絶する事をする事ができます。それを聖書が教えてくれています。


「するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。」

‭‭マタイによる福音書‬ ‭17:20‬ ‭口語訳‬‬


また,イエスが水の上で歩く時も教えてくれています。


「するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。 イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。 しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。」

‭‭マタイによる福音書‬ ‭14:28-31‬ ‭口語訳‬‬


これらは,信仰について話ていますが、神様のかたちの私達には、意志や感情など,たくさんの事ができます。また人を愛する心。そして、私達はイエスが出来たことができるはずです。神様を信頼し、私達を完璧に作って下さった方、神様を信じて、たくさんの事をする事ができます。


「あでやかさは偽りであり、美しさはつかのまである、 しかし主を恐れる女はほめたたえられる。」箴言‬ ‭31:30‬ ‭口語訳‬‬


 神は見た目より、心を見ると聖書をとおして、語られます。美しい事がダメなのではなく、それよりも私達の宝は何処にあるか、私達の目が誰を見つめているのか、神様に従っているのか、恐れているのかをみます。彼を求めているのか。


「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。」

‭‭マタイによる福音書‬ ‭6:26‬ ‭口語訳‬‬


神様は,私達を御使(みつかい)や鳥よりも優れていると言ってくれています。


「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。 またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。 それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」

‭‭マタイによる福音書‬ ‭10:29-31‬ ‭口語訳‬‬


神様にとって,私達は、それほど愛されていて、生かされているかを見る事ができます。


「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。」

‭‭ペテロの第一の手紙‬ ‭2:9‬ ‭口語訳‬‬

これら全ては、神の栄光のためであり、私達を救って,愛された方を褒め称え、それをたくさんの人に伝えるためである。

 

 

 

 



ラク

  f:id:ebaeskerrikasko:20220907085923j:image


 「あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。 もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。 そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。」

‭‭マタイによる福音書‬ ‭18:12-14‬ ‭口語訳‬‬


神様は、あなたをその小さい者のように愛している。小さい者とは、大きさでも、凄さでもなく、可愛らしい、愛おしい者のように思って言ってくれています。そんな,あなたを見捨てず,救いたいと願っているのです。

f:id:ebaeskerrikasko:20220907090102j:image


「主はわたしの牧者であって、 わたしには乏しいことがない。 主はわたしを緑の牧場に伏させ、 いこいのみぎわに伴われる。 主はわたしの魂をいきかえらせ、 み名のためにわたしを正しい道に導かれる。 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、 わざわいを恐れません。 あなたがわたしと共におられるからです。 あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、 わたしのこうべに油をそそがれる。 わたしの杯はあふれます。 わたしの生きているかぎりは 必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。 わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。」

‭‭詩篇‬ ‭23:1-6‬ ‭口語訳‬‬


神様は、私達を休ませてくれる。安心できる場所,方だと言ってくださっています。苦しみがないとは言っていません。偽りのない方です。

死が訪れるかもしれない。苦しみや危険があるかもしれない。そういう時も共にいてくださると言っています。その存在感は私達に安らぎと苦しみの軽減をあたえます。さらに天に宮を用意し、住まわせてくださると約束されています。

f:id:ebaeskerrikasko:20220907090125j:image

 

「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。」

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭10:11-16‬ ‭口語訳‬‬


羊は、羊飼いの声を見極める耳の持ち主と言われています。イエス様(神様)を信じる者にその力があると言ってくださっています。彼が私達を知ってくださるからです。彼がいるから

私達は彼の声を見極める事ができるのです。

 彼の見張りのなかに失敗はないと言って下さっています。それは,すごい安心ですね。彼のなさる事にたとい,それが幸せであり、苦しみであっても、彼のうちにいれば必ずちゃんと考えられた結果があるのです。


ですから、


「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭3:16‬ ‭口語訳‬‬


これが神からの贈り物、恵です。


神様はあなたを待ってくれています。そして、常にあなたをみつけています。彼に話しかけてみましょう。


 神様、私はあなたの救いが必要な罪人です。私の知らないところまで、あなただけが分かってくれています。私の罪をお許しください。あなたが私のために命をかけて下さった事を信じ、感謝します。私はあなたを私の心に迎え入れたいです。イエスの御名によってお祈りします。アーメン


エスを通してでしか神様に辿り着く道はありません。


「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」

‭‭テモテへの第一の手紙‬ ‭2:5‬ ‭口語訳‬‬


「イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭14:6‬ ‭口語訳‬‬


神様の豊かな恵と祝福がありますように!